日本大学歯学部] 

日本大学歯学部は旧制歯科医学専門学校(東洋歯科医学校)が
前身で、御茶ノ水駅聖橋口から徒歩2分の所にあります。
終戦時に存在していた旧制歯科医学専門学校のうち、終戦直後に
廃校にならずに大学に昇格した6歯科大学
(旧六)の中の1つです。

歯学部付属病院の隣には駿河台日本大学病院があり、都心にある
場所柄、皇族関係者や芸能人も多く来院します。
   *駿河台日本大学病院は旧主婦の友の跡地に移転し、
    医学部付属から日本大学直轄の日本大学病院に
    組織変更になっています。
私の卒業後の話ですが、キョンキョンが歯科病院に治療に来た
時には、学生はもとよりドクターまで浮き足立って大パニックに
なったという噂があります。

大学在学中には2度の大雪がありました。
五九豪雪(1983年〜1984年シーズン)と六一豪雪(1986年)
です。
大学前の「池田坂」でスキーをする輩が大勢いました。
映画「私をスキーに連れてって」公開の数年前〜前年のことです。

我が大学のしきたりは、入学した順番が尊重されるというもの
でした。
ストレート進学の5年生よりも留年&留年&留年&留年の
3年生の方が偉いというものです。
この関係が卒業してまで続くのです。
卒後1〜2年目のドクターよりも留年を繰り返した院内生
(5〜6年生)の方が威張っているわけです。
大学病院では患者さんが来院すると院内生が出迎え、診療科まで
案内します。
治療に必要と予想される器具を用意してから担当ドクターを
呼びにに行きます。
使用器具が不足していれば担当ドクターから小言や罵声の指導を
受けます。
ところが、留年を繰り返した在校10年目の院内生と卒後2年目、
在校8年目のドクターの場合、特に部活の先輩後輩の関係の場合、
使用器具が不足しても院内生に注意できないドクターが自身で
不足器具を取りに行きます。
院内生がドクターに向かって「後片づけはお前がやっとけよ」と
命令することもあります。
患者さんは目を白黒させて両者の顔を交互に見比べることになり
ます。
特に、卒後2年目、在校8年目のドクターが気弱なタイプの場合、
ユニット上で患者さんが気絶することもあります。
強い不安に伴うショック(循環状態不全)です。

私が院内生時代に担当した中で最も印象に残っているのは、
飛行機教習の先生でした。
米国で小型機の教習学校を経営していて、主に日本人の生徒を
教えている日本人女性教官でした。
根管治療をした歯が複数あり、その中の2本が飛行機搭乗中に
痛むという訴えで来院中で、先輩院内生からの引き継ぎ症例
でした。
これは「航空歯痛」とか「気圧性歯痛」とか呼ばれるもので、
顎骨内の微細な空間に溜まっている空気が、低気圧時に膨張する
ことによって痛みが生じる病態です。
山頂でポテトチップスの袋がパンパンに膨れるのと同じ理屈です。
担当は保存修復学のベテランのドクターで、いろいろな方法で
根管治療をやり直していました。
初診時よりはかなり改善しているが、まだ痛むとのことで、
数か月ごとの生徒募集のため来日するタイミングで受診しました。
ベテランのドクターは、毎度毎度毎度の同じような訴えに対して、
治療法をかえたり材料をかえたりと向き合っていました。

私の在学中は、歯科材料学や歯科機器開発が一気に進んだ時代
でした。
コンポジットレジン修復法(CR充填)(白い詰め物)が市民権を
得た時代です。
レジンとフィラーとが化学重合したのは1964年と古いのですが、
まだ歯質とコンポジットレジンとが接着していませんでした。
エナメル質のエッチング(酸処理)、象牙質用の接着材の開発、
改良が行われて、ようやく臨床的に耐えられる製品になったのが
昭和末期でした。

現在の電気根管長測定器の開発が最終段階に入ったのが在学中
でした。
従来から電気根管長測定器自体はありましたが全くもって実用的
ではありませんでした。
根管治療の際に使用するリーマーを進めて行き根尖孔から出ると
電気抵抗が変化するのを利用して、根管長を測定する原理は
以前からありました。
ゼロ点補正を各患者さんごとに行うという発想が登場したのが
在学中でした。

現在主流のスクリュータイプの歯科用インプラントが登場したのも
在学中でした。
それまでは、顎骨の上で歯肉の下に巨大な足場を組むサブペリオ型、
スケートの刃のようなブレード型、クリスタルサファイアインプ
ラント、歯周病でグラグラしている歯を補強する歯内骨内インプ
ラントなどがありましたが、いずれも臨床的には向いていません
でした。
その後、スウェーデンの整形外科医ブローネマルク博士が、骨と
チタンとが接合することを発見しました。
チタン製の人工関節よりは歯科インプラントの方が構造がシンプル
なので、先に1978年に歯科インプラントが開発されました。
そのチタン製歯科インプラントの形態や材質の研究が進んだのが
在学中でした。

日本大学歯学部付属歯科病院は、駿河台日本大学病院(医科病院)の
跡地に建て替え移転しました。(2018年)

2018年何かと問題が表面化した学校法人日本大学ですが、その
第13代総長であり初代学長である大塚吉兵衛先生は歯学部の先輩です。
自宅は砂田街道方面にあります。
砂田方面は当時は宇都宮高校の学区ではなかったらしく、陽西中学校に
越境通学したそうです。
大塚吉兵衛先生は日大歯学部始まって以来の秀才と噂されていました。
私が教わる時期には留学中でしたので、直接指導を受けられなかった
のは残念でした。
                       < 上へ戻る >

御茶ノ水駅の南側] 

御茶ノ水駅の南側はかつては学生街でした。
今も学生街ではありますが、オフィス街の色合いが強くなって
しまいました。
明治大学や日本大学理工学部は残っていますので、学生の味方の
安い居酒屋は残っているようです。
しかし、1978年に中央大学が移転し、1984に大正海上本社ビル
(現三井住友海上駿河台ビル)が完成すると、一気にオフィス街
へと変貌しました。
それまで500円だった喫茶店のランチが、次の日から1000円に
なっていて驚いたのを昨日のことのように覚えています。
他大学のことながら、中央大学には駿河台に残って欲しかったと
思います。
八王子では学生が集まらないので、多くの大学が都心へ回帰
しようと計画中です。
行政は、地方活性化・都心一局集中是正の名目で阻止しようと
しています。
中央大学も渦中の1校です。
中大多摩キャンパスを都心に近づける会」というサークルまで
あります。
一方、明治大学は2000年に地上23階地下3階のリバティタワーを
完成させて受験者数を増やしているようです。

明治大学の西側の坂の上に山の上のホテルがあります。
出版社に近いことから、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎など
文豪の常宿となっていたことで有名です。
池波正太郎のエッセイに登場する天ぷらも有名でした。
山の上のホテルの旧館(本館)は、明治大学OBの豪商が建てた
ものだそうです。
新館は2014年に閉鎖され、明治大学に売却されました。
明治大学と縁が深い山の上のホテルです。


雑誌カーグラフィックを出版していた二弦社は神田神保町の交差点
至近にありました。
山の上ホテルから白山通りにかけては坂になっているので、試乗車の
簡単なインプレッションはその坂で行っていました。

日大歯学部の北側にはニコライ堂(東京復活大聖堂)があります。
日本正教会の教会です。
日本に正教会を頒布したロシア人聖ニコライ司祭に由来します。

聖橋は、ニコライ堂と湯島聖堂(神田川の北側)と2つの聖堂を
結ぶことから命名されました。

御茶ノ水駅聖橋口とお茶の水橋口の間や、お茶の水橋口の西側には
画材屋さんや画材屋さん兼喫茶店がありました。
お茶の水橋口の西側には医学書専門の書店がいくつかありましたが、
医学書もネットで買える時代になったため、いずれも廃業したよう
です。

御茶ノ水駅聖橋口の東側のガード下には汚い居酒屋があって、学生の
溜まり場でした。
しかし、現在では
旧万世橋駅を中心に再開発され、汚い居酒屋が
あった場所にはお洒落なレストランができています。
旧万世橋駅の南側にあった交通博物館は、JR神田万世橋ビルに
様変わりしました。
千代田区立淡路小学校跡地にはワテラスが、日立製作所本社ビルは
御茶ノ水ソラシティに替りました。
御茶ノ水ソラシティの中にJAXA(宇宙航空研究開発機構)の東京
事務所が入っています。

古い街並みが残っているのは、神田中央郵便局の南側一帯だけに
なりました。
かんだやぶそばや、神田まつや(蕎麦)、竹むら(甘味処)などが
あります。

竹むらはアニメ「ラブライブ!」の舞台になったそうで、アニメ
ファン、特に女子高校ファンの聖地なっているそうです。
東京を紹介する散歩番組にて度々紹介されています。
                      < 上へ戻る >